紅葉狩り

浄住寺の藤岡さんからお便りが届き、みき&まきでご挨拶がてら紅葉を愛でに伺うことになりました。

密を避けるため、今年は予約制での参拝です。

2年ぶりでお元気だった藤岡さんと、浄住寺にて。
二人で着物で伺いました👘私はこの日、白大島に、母がくれた青空に紅葉をモチーフにした名古屋帯を締めました🍁
中庭

有名なお寺では、お寺という大規模の建造物を維持する資金が確保されやすいかもしれませんが、

通常一般公開されていないお寺は、公的な予算枠から外れてしまうことが多く、古い建物を保存していく苦労は計り知れません。私は力不足ですが、ご縁があり、藤岡さんを少しでも応援できればと思います。

今年は紅葉も、あっという間でした。
浄住寺を参拝したあと、西行桜で有名な勝持寺と、春日大社の分霊を祀った大原野神社に紅葉を愛でに行きました。
道程での田園風景は、本当に癒やされました。
一人ではとても無理と思うような大変行きにくいところで(笑)、草履も履き倒したかと思うくらいよく歩きました。
苦労して行った甲斐があってとても美しくて、
またありがたく楽しい一日でした。

杉浦定期能のお知らせ

杉浦定期能

12月19日(土)午後1時開演(12時開場)

京都観世会館にて

能 清経 出本勝範

能 船弁慶 前後之替 杉浦豊彦

松井は仕舞 花月キリ を舞わせていただきます。

前売り一般4000円、当日一般4500円、学生2000円

お申し込み、お問合せは松井miki.20030517@gmail.comまで

http://www.kyoto-kanze.jp/show_info/

新型コロナウィルス感染拡大防止のため*おこしになる際はマスクの着用、手指の消毒をお願いいたします。また、ご連絡先等のご記入にご協力くださいませ。*発熱など体調のお悪い方のご来館はご遠慮くださいませ。*客席に制限がございます。ご迷惑をおかけいたしますがご協力くださいますよう、お願い申し上げます。

茶道体験

令和2年は人の行き来が激減した年でしたが、秋に小学生が修学旅行中の一貫で体験に来てくださったのがうれしかったです。

教員の方々に温かく見守られ、のびのび育っているのかなと感じされられる、澄んだ瞳をした子どもたちでした。

まずは蹲での手の清め方から体験していただきました。

茶道体験というと、お茶を点てることを真っ先に想像することが多いかも知れません。

実際の稽古では、恙無く席入りする、床や道具を丁寧に拝見する、お茶やお菓子をいただく美しい所作を身につける、自然の移ろいを感じるセンサーを研ぎ澄ますなど、点前の稽古でなくとも身につけることが沢山あります。お点前の稽古が始まると、そういった基本的なことが大事だったのだということがよく解ることが多いです。

そのため、稽古始めでいきなり抹茶を点てることはしません。

抹茶を点てるということは、たかが一服、されど一服というように、まず火を焚き、火を焚くための灰や炭を用意し、釜を準備し、抹茶を漉し、茶器に茶を自然な景色を作るようにして盛り、季節や節目に合った道具を選ぶ目を養い、客が取りやすいように菓子を盛り、黒文字を湿らせ…と、することが多く、また何年もの修練を要する落ち着きや技術が必要です。 

安定した手つきで柄杓で湯を汲み茶碗を温め、細い茶杓で抹茶を零さずぶれずに掬うといったことは、単純に見える行為ですが、実際やってみると自分が自分の心と体をなかなか思うように制御できないことに気付きます。今日明日にできることではないことが大変多く、難しいところなのだと思います。ただ台所のコンロで湯を沸かし、だれも見ていないからこぼしても平気な気持ちのまま、カチカチ音を立てながらお茶を用意するのとは違い、茶室というしんとした空間と調和した振る舞いで点てていきます。

道の文化や同等の修練を積んだことのない場合、そんな大げさなと思われるかも知れません。それでももしかしたらひいひいおばあちゃんが使っていたという思い入れのあるお茶碗でお茶を点てて出していただくような、そんなお茶席にご縁をいただくことも想定するのです。 その時悪気は無いけれど割ってしまったということはありえません。たった一度の粗相でその代から未来の子孫へは大事にされ続けてきた、亭主にとっても魂が宿っているような存在を受け継ぐことができなくなってしまうのです。

点前の稽古が始まると、同時に水屋の稽古も始まります。

水屋の稽古は、客の目が届かないところで自分がどのように振る舞うか、自分自身を表裏統一させていくさらなる修練の場だと捉えます。表でどんなに神聖に振る舞えても、裏になると変わってしまう、そういう自分を見つめていく稽古です。

そのため、保守的と思われてしまいがちですが、茶席はそのような体と心の修練を積んだ者同士の場ですと、とても安心感があり、調和し、別次元に身を置いているような場になります。お茶でなくとも、本質的に似たような修練を積んだ方がお入りになっても、同じ安心感や調和が得られると思います。体験ではまずそれを少しでも感じていただくことを大事にしています。

自分に向き合うこのような修練を積むことが直感的に大事なことと思い、外から幸福や調和的世界を情報などで求められるものではないと、頭ではなくハートで理解している大人の方々が、こうした体験に子どもたちを送ってくださるのだと感じています。自転車に乗るためにマニュアルを読むのではなく実際に乗って練習を坦々と繰り返して乗れるようになるのと同じで、シンプルで丁寧な生き方を謙虚に積み上げていくのが大切なのではと感じている人が、最近、今まで以上に増えてきているように感じます。

時間に限りがあるので通常客としての体験で終わってしまいますが、今回は、予め子どもたちのメッセージの入ったお手紙を頂きました。とても丁寧に一人一人自己紹介してくださっていて、心意気を感じさせられました。またお茶を点てるのを楽しみにしていますと書いていらした子どもたちも数人いました。せっかく遠方からいらっしゃるから、お抹茶を点てる体験もなんとか時間に組み込めないかと思い、一人では到底無理なので、今回は教室に一番長く通ってくださっているYさんにお手伝いをお願いすることにしました。

初めてなので、水屋で茶碗を温め持ち出すところまでYさんにしていただき、子どもたちは、ポットでお湯を入れてもらい、茶筅を振るって点て、お友達に飲んでいただくようにしていただきました。

Yさんの陰の働きで、子どもたちへのお茶点て体験が可能になりました。

拙宅2階からの日の出。

以前初めてお茶の体験に来られた方の中に、時間を間違えて1時間以上早く来られ、私がまだ庭掃除をしていた時で、折角早く着いたからなにかお手伝いすることはないですか?と聞いてくださった方がいました。

私は丁重にお断りしました。

とても言い難いことでご本人には言えませんが、亭主の手伝いをするのには、教室に一番長く通われているYさんでさえ、私から声を掛けてようやく「もしお役に立てることが少しでも有りましたら喜んで」と遠慮がちに仰るほど、長年の修練が必要になり、長くされている方ほどそのことを理解されています。私も師へのお手伝いに対する心構えも同じです。

初めての方に手伝っていただこうとすると、まず安定した体が必要になり、しんとした静まった空間をその存在で作ってくださる人であること、本番前に沢山質問をしていただく時間がないこと、機敏に丁寧に小さく働けるなど、基本的なことが身についていないと逆に一人でしたほうが捗ったということになりかねません。

また、茶席の1時間前は一番忙しい、集中力を要する時間です。抹茶は時間がたつと固まってしまうので、予め準備できず、なるべく寸前に濾してはきます。炭の起こり具合も見ているので、人とおしゃべりしている暇はありません。香を焚き、水打ちも乾いてしまうのでなるべく寸前にします。

こちらは一期一会でお客様をお待ちしているので真剣です。そのためそのようなお申し出もお断りしなければなりません。

「手伝います」とおっしゃってくださったその言葉の背後に、これだけのことを覚悟していることが感じ取れない場合、ここでゆるんだり同情してしまってはその人にとっても、全体の場にとっても、あとあと良いことはありません。

お茶の体験後、松井美樹さんに、能のお話や仕舞いの観賞をお願いし、子どもたちに楽しんでいただきました(面がちょっと怖かったかも💦?)。

能の世界も同じなのはお分かりになると思います。

例えば面も特に古くからあるものを使っていらっしゃる場合があります。

好意で運ぶのを手伝おうとすることも憚れます。

能楽師が面をつける前に押し頂くその姿は、面自体への畏敬が感じられ、

何代にもわたり同じ面を付けて一期一会で舞ってきた先人への感謝と敬いの気持ちが伝わってきます。

その能楽師と同じような修練を重ね集中力を培ってきたその手で初めて手伝える領域だと感じます。

色々厳しいことを書きましたが、才能を必要とする、別世界のようなことを言っているのではないのです。

誰でも、お茶でなくても舞や武道、芸術的なことに打ち込むことを通して、高い集中力を培い、心身のハリが長く保たれるようになるのは、繰り返しの積み重ねで可能です。積み重なれば積み重なるほど、洗練され、軸は細く強くなり、気が整っていき、整っていくほど、言葉での言い争いのない調和世界が近づいていくと思います。

10年20年ではまだまだひよこと言う意味が、少しわかっていただけたら幸いです。私もいつもひよこだなあと思いながら精進しています。 例えばある人が「徹底的に自分を見つめた」と仰ったとしてその学びの期間が1〜3年の場合、道の文化や伝統芸能に長年携わっている人には、そんな短期間で徹底的と言ってしまうことに違和感を感じてしまうでしょう。長く積み重ねれば積み重ねるほど、謙虚にならざるを得ないということが身に染みる奥深いものです。

私の修行は、まだまだ、この身が朽ちるまで続きます…