夏在涼風

あともう少しで7月も終わりです。

今月の稽古が全て終わり、土用明けまでにしておきたかった作業を、今日行いました。

早いもので土用が明けたら立秋なのですね。

昨日、思いがけなく季節の野の花をいただきました。
ありがとうございます🌹
おかとらのお
えのころぐさ
みぞはぎ
梅の土用干しをしました。
こどもには、刻んだ梅干を炊いたご飯に
ごまとともに混ぜて海苔のお握りにしたものをもたせると喜びます🍙

梅干の後は、灰篩をしました。

たまった灰を篩いにかけ、かたまりを除いていきます。

休み休みしましたので、全部終わりませんでした。

明日明後日の空いた時間に灰篩の残りを終わらせ、

水をかけてアクを取っていく作業ができればと思っています。

手前左が固まり(くず、尉など)、左奥の黄色のバケツの中の灰は未ふるいのもの。まだ半分残っています💦
灰は毎年同じものを使いますが、このようにして毎年今頃に、
ゴミをとったり篩ったり、アクを取ったり染めたりして、
純化していかなければいけません。
ただ繰り返し使うのではなく、清めていくのです。
自分の生き方あり方が示されているように感じるのですが...
外で休憩タイム🍵
木槿のねりきりとお抹茶で😌

時折吹いてくる涼風がありがたいです。

禅語に、”夏在涼風”というのがあります。 センターの和カフェでも先日小さく書いて立てておきました。

気づかない人もいるし、ご年配の方にはチラッとみてくださっている方もいらっしゃるようです。

夏在涼風 ...夏に涼風在り と読みます。

宋の時代の禅僧・無門慧開和尚という人が書いた詩の一句だそうです。

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春に百花在り

秋に月在り

夏に涼風在り

冬に雪在り

もし閑事(かんじ)の心頭に掛かる無くんば

便(すなわ)ち是れ人間の好時節

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よい季節、悪い季節、というのはあるのでしょうか。

夏のうだるような熱気、湿気の中に、ふと感じた涼風。

涼風も、いつもあってはそれほどありがたくも感じないが、

夏に在るからこそ有り難みが増す。

夏の不快な面ばかりフォーカスしていると、夏はつまらぬもの(閑事)となり、

プラスの面があることに喜びを感じ感謝して生きる人生は

いつも人間にとって好時節となる。

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プラスしかない人生というものも存在しません。

存在しないのに、あたかもそのような人生が存在する、そのような人生を歩んでいる人がいる、そのような人生を強く求める、そのような人生を自ら歩んでいると錯覚する傾向が、特に現代社会にある気がします。

マイナスのような出来事は、誰の人生にも必ず起こり、聖人君子にも起こります。

マイナスから目を背けない強い軸があるかどうかが、

実は涼風のような人間になれるかどうかと関わっているのだろうな...とふと思ってしまいました。

ある禅の法話を読んだことがあるのですが、一人の女性の生涯を例に学びをいただく内容でした。

90才後半で亡くなったこの女性、お若い頃に結婚し、お子さんたちを授かったが、

生活は辛く、家を追い出されるように離婚、わずかばかりの畑で朝から晩まで一生懸命働き、女手ひとつで子どもたちを育てられました。

子どもたちがやがて大人になり母親の生き方をこう語っていらっしゃいます。

「辛さも苦しみも正面から受け止めてきた人」

女性は晩年、人様のお役に少しでも立ちたいと東奔西走し暮らしていたそうですが、

恩に着せることもなく、自慢することもなく、

人生の酷暑の真っ只中にいる方々にさっと手を差し伸べ

涼風を残して去っていくような人だったそうです。

周りにとって涼風のような在り方…

自分の意志で人の役に立つように頑張るというのとはまた違うのだろうなと思いました。

是れ人間の好時節 とは、災難、苦しみ、不幸のない人生という意味ではなく、

人生にご縁のあった全ての事、人から学び、気づきをいただき、慈しみ、

不幸な事柄に遭ったときさえも、不動の心で全力を尽くし、

また、自分を成長させてくれるものを見出し、感謝し、

あらゆるご縁を包むように生きる、やさしく、そして強いあり方。

そんな生き方がいつのまにか定着してきたら、

自然にその人となりに現れる涼やかさなのかもしれません。

文月のお茶の稽古2

今月のお茶の稽古が終わりました。

暑い中本当にお疲れさまでございました。

最終日の午後は、濃茶三昧のような稽古になりました。

夏の道具組。割蓋平水指で濃茶の稽古。蓋を開けると客から水面がいつもより広く見え、客に涼やかさを感じていただける水指です。
写真を撮らせていただきました。
割蓋の扱いは、神経を使いますが、背筋を伸ばしリラックスした中で指先に気を行き届かせるよい練習になります。お客様にとっても、特にじとじとした季節に、爽やかなのびやかなお点前が出来たらと思います。
客としてのお茶のいただき方も、薄茶と少し違いますが、客の作法も点前も、いずれも薄茶の基本がある程度出来ていないと濃茶はやはり難しいと常々思います。

ところで、客の稽古では、無理をせず立てる時は立って足を伸ばしたり、正座椅子を使ってみたりするようお伝えしています。

ただ、お点前の稽古をされる方は、正座椅子が使えないので、正座が苦手な方はお辛いですね。

なるべく早くお点前に慣れて、さらさらと終わらせて点前畳に座っている時間を短くする以外に方法はないものでしょうか。上半身を引き上げ、なるべく足に重みを加えないようにしても、どうしても痛くなる方もいます。

お茶をお出しした後、お客様にお茶を召し上がっていただいている間などに、時々跪坐になっていただいたり、ほぐしたりしていただいたりし、決して無理のないよう徐々に慣れていっていただければと思っています。

現代の日本は正座をしなくても生きていけるくらいの椅子社会になりました。

ある程度意識して正座を日常に取り入れることは、体と心にも良いことと先生方からもお聞きしていますので、励ましになるかわかりませんが、少しためになる正座の紹介もしておきたいと思います。下記は、7年くらい前に書かせていただいた、正座のちょっといい話です。

また、野口晴哉氏が19才?の時に、「正座再考」という手厳しい記事を残していらっしゃるそうですが、野口氏によると、正座は足腰の鍛錬法であり瞑想法でもあり(茶道では点前の稽古をしていると同時に足腰の鍛錬法も実践していることになるのですね)、足腰を使って座ることで、上半身が実は楽になり、頭の力が抜け、その系統である首、肩、腕も緩み、ぽかんとするのも正座の持つ効用の一つとのことです。

ずっとでなく、ほんの少しでも正座を取り入れることで、一度自分をニュートラルな状態へと戻すことが出来、新たな心でことにあたることが出来るというのですが、確かに経験からそう感じます。

箏曲、楽箏

大学生のKさんは、いよいよ六段調に入りました。

中能島欣一先生のCDをお貸しし、できるだけ空いている時間に六段調を聞いておくようお伝えしました。

普段ならマイペースでやっていただきたいのですが、Kさんにとって来月はいよいよ教員採用試験(音楽科)です。時間がまだあると思っていたら、あっという間に今年も7月。

次回の稽古までに、Kさんは手事物の六段にするか、歌もので受験するか、決めなければなりません。

これから受験される方は、大学4年は他の試験や勉強で思いの外忙しくなり、思うように練習時間がとれないので、余裕を持ってレッスンを始められることをおすすめします。

苦労している人を前に申し訳ないのですが、自分の20代の頃を思い返して、懐かしい(でも戻りたいとは思わない)気持ちになることがあります。

稽古で学んだことを忘れない内に、帰りの電車の中で猛烈に譜面上でお浚いをしていたこと。

車内や路上で、指を動かしながら、周りも気にせずぶつぶつ唄っていたので、今思い返すと赤面です。

受験対策によかったのは、先生からお借りした名人の演奏を空いた時間に何度も聞いていたことです。

曲の雰囲気や音程をまるごと耳に覚えるようにすると上達も早いと思いますので、学生にはおすすめしています。

お琴の弦は、そのままでは鳴らず、お柱と呼ばれる琴柱を立てて初めて響きます。 バイオリンは、英語ではサウンドポストと呼ばれるものが内蔵されているそうですが、日本ではこれは、「魂柱(こんちゅう)」と呼ばれているそう。
夏目漱石が最初に名付けたと聞いています。魂の柱なんて、素敵な名ですね。

夕方は京都に向かいました。雅楽の発表会で、初めて楽箏参加するためでした。

楽箏は弾き方が箏曲とかなり違い、打つように鳴らすので、最初はなかなか慣れませんでした。

また、リズムも譜面には書いていないのに早くなったり遅くなったりして、お互いの呼吸、タイミングを聞くことがとても大事になります。なんと繊細なのでしょう。

大変ですが、最近は手厚いご指導をいただいているお陰で、少しづゝ形になってきているかもしれません。

なによりも何十人というオーケストラのような雅楽メンバーと奏でていると、笙も篳篥も龍笛もそうですが、

宇宙音のような不思議な音色の中に身を置いていて、まるで宇宙を漂っているかのような気持ちになります。

先生から、いにしえの貴族たちのコミュニケーション方法を聞き、とてもびっくりしました。

当時の政治家は、芸術的であることが必須だったそうです。

このことについては、また別の機会に感じたことを書いてみたいと思います。

とにかくいつも一生懸命で楽しい先生方、

色々な理由で雅楽にたどり着き精進していらっしゃる生徒さんたち、

みなさん素敵でした。

そして最後の先生方のオリジナル曲演奏「カオスからコスモスへ」。

とても素晴らしかったです🌏

ありがとうございました!

近所の公園の砂場で渦発見!
というのは冗談です😅
18才の娘が作ったいたずらです…
次の日公園で遊ぶ子どもたち、驚くかなあと言いながら…

感想文のご紹介

7月9日の稽古の後、娘と木津川まで歩きました。

その日の京田辺の午後は雷が鳴り響き常に雲行きが怪しく、雨も振ったり止んだりを繰り返していましたが、虹が見えそうな雰囲気でした。

かなり歩き、そろそろ帰路に着こうとした時に、

西側の雲間に光が射し、

南東に呼応するように美しい虹が現れました。

美しい魂の源に、祈りを捧げたくなりました。

2022年7月9日 木津川にて photo taken by Maia

時々、わの舞の学びや千賀先生の教えに興味を持っていらっしゃる方々が、

茶道体験に遠方からご参加くださいます。

遠くから本当にありがとうございます。

七夕の日、長年わの舞を学んでいらっしゃる方がお越しくださり、ご感想を伝えてくださいました。

時々茶道稽古体験のご感想をいただき、いつもありがたく読ませていただいておりますが、
今回、長年わの舞を勉強されていらっしゃる方からの視点を詳しくいただけ、とても貴重に思いました。

参考になるかと思い、許可をいただき、ここでもご紹介させていただきたいと思います。

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私は茶道には全く興味がなく、千利休も名前は知っている、というレベルでした。
きっかけはわの舞とどこに通ずるものがあるのだろう、と思った事で、予備知識を持たないまま参加しました。
実際にやってみて、様々な所作を行う上での体遣いがわの舞と全く同じ事に驚きました。
正座をして立ち上がる際はわの舞で言うおへその裏側のセンターが要となり、軸が弱いと綺麗に立ち上がる事が出来ません。 器を持つ際も丸い器、四角い器、軽い器、重い器、それぞれの扱いに腕の張りがなければ上手く扱えない所作になっている、その作法の繊細さにも驚きました。
軽いものは重く、重いものは軽く、という表現のされ方も、わの舞で誰かが引っ張っているように、と表現し下に向かう力があって上昇する、という事に繋がるなあと思いました。

わの舞の体遣いと茶道の体遣いが同じと言う事は、同じ中心軸の気の流れを用いている事が分かります。
その所作の繊細さから利休ご自身が的確に捉えられており、そうしたエネルギーが何をもたらすのかを熟知しておられたのだろうと思いました。
茶道の背景が戦国時代であった、という事から大変考えさせられるものがあります。
現代人には分からないですが、その所作と作法を通じて作り上げていた事の意義深さが想像出来ます。
わの舞をやっていたからこそ感じとれる世界がありました。

利益を求める経済によって人としての在り方そのものが失われるのに対し、茶道の世界には軸を培い、感性を磨き人を育むそうした事も感じられました。

(省略) 京都の文化にも奥深さを感じます。その審美眼や洞察力に感動したりもします。

長くなりましたが、今この現代もある意味で戦国時代かも知れませんね。
様々な事が起こる中で、冷静に真っ直ぐに立ち続けなければいけないな、と、抽象的ですが、そうした事が必要な世の中になってきたなと思います。
ありがとうございました。

文月の稽古

7,8,9日と今月前半の茶道の稽古が続きました。

七夕の趣向で糸巻二重棚を使いました。

表千家十一世 碌々斎好 一閑青漆爪紅糸巻二重棚、
織部手瓶茶器

銘「織女」…葛餡で包んだ主菓子をご用意しました。

天然色素で色付けし、白砂糖不使用、本葛で作っていただきました。
昔はそれが当たり前でしたのに、
今では特注になります…

暑い中、ようこそお出ましくださいました。

暑い時はぼうっとしがちですが、逆にいつもよりハリがあるお点前をする方々、

節目を感じるように急にめきめき上達されている方とご一緒し…

気持ちのいい汗をかかせていただきました。

滝修行に通ずる場となりますようにという気持ちを込めて、

滝の軸を掛けさせていただきました。

軸には、滝の筆の横に小さ目に、「滔々落下三千丈」と書かれています。

唐の詩人、李白の、`廬山の瀑布を望む` という詩から来ています。

日は香爐を照らして 紫煙を生ず

遙かに看る瀑布の 前川に挂かるを

飛流直下 三千尺

疑うらくは是銀河の 九天より落つるかと

三千丈は、約900mのことですが、遙か天からという意味になります。

「疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと」 銀河の九天は天の川のことを指しているといいます。

凄まじい勢いで水しぶきを飛ばし落ちてくる滝を仰ぎ、まるで天の川が落ちてきたのではと思うほどのその雄大な大自然の姿に驚かされまた感嘆している様子です。

七夕の節句では古来から身を清める儀式風習がありました。

余計な雑念や感情を全て洗い流してくれるかのような滝。氵に竜と書くのですね。

夏越の祓えから七夕にかけてのこの時期は、

半年の間に弱まってきている心身を活性化を意識した伝統が残っています。

この稽古期間考えていたのですが、日本に古来から修験道という山岳信仰がありますね。

私は山での修行はしておりませんけれども、ちょうど9日に届いた、霊性修行に関する聖者の言葉を読んでいるうちに、

やはりこの場でみんなで行う修練を通し、培えることが沢山あることを思いました。

霊性修行を通し救われることを切望する人々は、
議論や反論に応じてはならない。
悪い感情という策略に
おびき寄せられず、
自分自身の欠点を見つめ、
それを繰り返さないようにすべきである。
道の途中でどのような困難や失敗や混乱に
遭遇しようとも、
自分が目指す目標をしっかりと見据えながら、
獲得した一点集中を守り、保護するべし。
あらゆる物事に関する大小の疑念を膨らませて
貴重な時間を無駄にしてはならない。

ちょうど花が少なくなる時に元気に咲いてくれる木槿。とてもありがたい夏の茶花です。