ちょっとシリアスなタイトルがついていますが、後で説明させていただこうと思います。
京田辺では、ちょうど二十四節気の雨水を節目に、
雪が溶けて水となり雨に変化してきたのか、雨の日が続き、気温が緩んできたようです。
ようやく鳥の鳴き声が聞こえてきました…!
昨日の教室のお菓子の銘は、「おとずれ」でした。
今朝外に広がる光景は、また昨日と異なり、青空にお日様が輝き、ふわふわの雪が舞い降りています。
如月は、春のサインを見つけてはときめき、一方極まる寒さが肌に沁みる月でもあります。
そんな時茶席では、お茶が冷めにくい、縦に細い筒茶碗でお客様をもてなしたりします。
また客前で絞り茶巾をするお点前も勉強します。
いつもより長くお茶碗を温め、熱々のお茶を召し上がって頂く配慮です。
筒茶碗の扱いも絞り茶巾も集中力を要し、気を抜く暇がありませんが、
迅速で、無駄のない、優雅でゆったりとした点前であるのは変わりませんので、難しいと思います。
今月は、おのれを磨く日々の稽古という、私が15年前くらい前に購入し、ずっと読んでいなかった本の中になる一部を皆さんと共有しています。
稽古場ではテキストを使ったり読んだりといったことはめったにありませんが、今月は共有させていただいています。
こちらでも少しシェアできたらと思い、書かせていただくことにします。
著者の宗心宗匠は、表千家の茶人で、96才で8年ほど前お亡くなりになりました。
著書の中で、ものを持つときの人の境涯ということに触れられ、とても共感し、何度もありがたく読ませていただいています。
親指と人差し指でものを持つというのは、ものを「つまむ」ことと同じで、体全体がものと一体になっていないこと、
人差し指は「知」の象徴で、人差し指を働かせようとすると「知に走る」といい、
知覚的にものを把握する段階で終わってしまうこと、
自分の身体の受け止め方を体験を通じて把握することの大事さが説かれています。
物と人との間に働く大きい真理の仕組みがあることに気づくのは、禅の片鱗に触れ始める時であること、
人差し指の神経は脳の中枢神経に繋がっていないが、中指はつながっていて、医学的にも証明できることなど、
宗心宗匠の家柄の点前の極意について、書かれています。
中枢神経から働く所作を目指していることがここから読みとれます。
さらにこれらのことは、日々の稽古を通じて自然と身につくことであり、日々の稽古が大事であること、
日々をいかに暮らすことが、おのれを磨くことに繋がるということを語っておられます。
そのようなことを、今月みなさんとシェアさせていただき、
道具を扱う時、客としての立ち居振る舞い、襖の開閉、様々な一瞬一瞬において、
己を磨くことができることを味わっています。
背中をしゃんとさせると中指に神経が行き届いているのが感じられますが、
同時に人差し指も他の指も中指に根元から集まってきます。
重いものを持つ時も巧みに人差し指たちがサポートをしてくれています。
人差し指さんも、ありがとう😌